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| 開陽丸の遺物など |
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| 明治元年、徳川幕府最強の軍艦と言われた「開陽丸」は、ここ江差の沖合で座礁沈没しました。それから百年を経過した昭和50年、日本初の海底遺跡として引き揚げ作業が行われ。3万点以上の遺物が引き揚げられています。かもめ島手前には平成2年に実物大に復元された「開陽丸」が青少年研修施設として建設され、海底遺物の一部が展示されています。 |
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法華寺八方にらみの龍 |
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| 日本文人画の第一人者、池大雅の作と伝えられる法華寺本堂の八方にらみの龍。7メートル四方の天井に描かれた龍の眼光の鋭さ、体全体から放たれる威厳は圧巻です。 |
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| 九艘(くそう)川橋の欄干 |
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| 旧中村家南側、今は道道と国道を結ぶ小路となっていますが、昔は川で、今は道路の下を流れています。ここが元々川であった証として旧中村家正面の横には字が読み取れなくはなっていますが「九艘川橋」と書かれた欄干の柱が残り、歴史の重みを伝えます。 |
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北前船係留跡 |
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| 往時、海路江差までたどり着いた北前船が江差に錨を下ろした場所は、日本海の荒波から船を守るかもめ島の内海でした。その際の係留跡として、島の岩盤に細工した係留柱を入れる穴や係留環(ロープを通す環)が今でも残っています。 |
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| 村上の井戸(かもめ島、青坂宅裏) |
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| 北前船がかもめ島に錨を下ろし、次の航海の準備で何よりも苦労したのが水の確保。島には水がありませんでした。明治10年、江差の問屋村上氏は莫大な経費と長い年月をかけてこの井戸を掘り当て、北前船航行に大きな便宜をもたらしました。 |
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江差八勝 |
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| 勤皇の四天王と言われ、安政の大獄で35歳の生涯を閉じた頼三樹三郎は、1846年から1年間この地に滞在し、数々の文化的財産を残しています。その一つ江差八勝は、頼と江差文人7人が、江差の優れた景観8箇所を選定しそれぞれを詩題として作詩。それら8首は額に表具され姥神大神宮に献額されています。 |
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| 百印百詩 |
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| 勤皇の四天王の一人と言われた頼三樹三郎が江差を訪れたのと時を同じくして、探検家で北海道の名付け親でもある松浦武四郎も江差に滞在していました。この2人が成し遂げた快挙が一日百印百詩です。一日のうちに座中の江差文人などが出す題で頼が詩を詠み、松浦が印石に詩題を篆刻。両者の奇才に集まった文人や商人が魅せられたと伝えられています。 |
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五厘沢温泉の歴史 |
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| 町の北端にある旧五厘沢温泉はその昔「都万(妻)の湯」と言われていました。今から約300年程前、重病の奥さんを抱えたこの地の弥四郎という農民が、神のお告げを頼りに見つけたのがこの温泉。湯浴みをさせたところ、日に日に快方に向かったという言い伝えが残っています。 |
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| 津花のアネロイド気圧計 |
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| 大きな漁師以外気圧計を持っていなかった昭和の初め、江差の船具商、関川氏が津花の浜に設置。それ以降、漁師は、勘に加え、科学的なデータに基づいた天気の予測が可能になりました。 |
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奉行所正面 |
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| かもめ島を見下ろす法華寺。ここの山門は元は檜山奉行所の正門でしたが、昭和15年に奉行所が閉鎖されて移設されました。北海道で最も古い木造建築物と言われています。 |
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| 円 空 仏 |
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| 天台宗の僧円空は、1665年に来道し道南地方の山にこもりました。その際、いくつもの仏像を彫り、そのうち3体が江差の岩城神社(尾山町)、柏森神社(柏町)、観音寺(泊町)に残されています。 |
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木 喰 仏 |
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| 1778年に来町した木喰行道は、江差に2年間滞在し、仏像を造りました。江差町では観音寺(泊町)と金剛寺(中歌町)に2メートルに近い仏像が安置されているほか、小型のものが民家にも多く残されています。 |
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| 船 絵 馬 |
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| 北前船による交易の時代、船主が新しく船を求めると船絵馬を造って信仰している神社に奉納するなどしていました。桧山神社と姥神神社に当時の船絵馬が所蔵されています。 |
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寛保津波の碑 |
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| 1741年7月6日、松前大島噴火。同19日未明、江差を含めた日本海沿岸120キロメートルに津波が襲来し、溺死者1,236名(うち江差町では120名)をはじめ1,467名の命を奪った寛保の津波。江差の寺院が合同で供養法要を施行し、供養碑を正覚院と碇町(後に法華寺に移転)に建立。江差を襲った自然災害の貴重な資料です。 |
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| 瓊江丸の碑 |
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| 明治27年7月11日、江差の北海汽船会社(社長・松沢伊八)の所有する同船が、ニシン場からの帰郷客を乗せて津軽海峡で新潟県の三吉丸と衝突沈没し、261名が溺死する悲惨な事故が発生しました。松沢氏は私財の全てを投じて、遺族の救済と死者の供養にあてました。その一つとして正覚院と青森県の合浦公園に供養碑が残ります。 |
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あられ庵の句碑 |
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| 松尾芭蕉縁の俳人、太呂によって揮豪された句碑がかもめ島に残っています。 |
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| 姥神などに残る「横井戸」 |
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| 水道が布設される以前、水源の乏しい江差において、特に水の確保に困窮したのは姥神近郊の方々。大きな家では崖地に横井戸を掘り、その確保を図りました。 |
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