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| 「鞭声粛々夜河を渡る・・・」の詩吟を耳にした人は多いことと思う、これは頼山陽の漢詩である。三樹三郎は頼山陽の第三子として文政8年(1825年)5月、京都にて生まれた。 |
| 三樹三郎が江差の齊藤家を訪れたのは弘化3年(1846年)9月で、翌年7月には東蝦夷地へ向け旅立っている。この短い期間とはいえ多くの文人達との交流を深め、「一日百詩」や「江差八勝」など詩才を存分に発揮できた。三樹三郎にとって、彼の波乱の生涯では「北の桃源郷」であったことだろう。 |
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| 江差の医師西川春庵の下僕・雲平として、始めて樺太・知床を探検して、江差に歸った松浦武四郎(29才)と、偶々江差に来遊していた頼三樹三郎(22才)が、江差町年寄の斎藤左司馬(作左衛門・観三・鴎洲・観海・観)の取り成しで、江差の文人西川春庵、菊地謙斉らと交を深め意気投合。鴎洲を接点とする文人仲間の計らいで、弘化3年(1846年)10月14日(陰暦=最も日の短い冬至の前日)鴎洲の一族が経営する料亭・雲石楼(江差上町、姥神大神宮後背台地)で「一日百印百詩」の雅会を催すことになった。武四郎・三樹三郎の両人も快諾し、お世話をかけている伯交(鴎洲)に感謝をこめての開会となった。 |
| その様子は「伯交戯れに眼前、即時の語を拾って題を命ず、予(武四郎)ために拙刀を奏してこれを篆し、子春(三樹三郎)乃ち健筆を弄して之を詠ず、随て刻せば随て吟ず、筆は飛て刀は舞い、マ(夜明け)より日甫(日暮れ)に至って百印百詩咄嗟にして成る」(元治本一日百詩武四郎跋)と、武四郎は述べているが、三樹は「常規を逸する行動であろうが、天のある限り伝え残るであろう」と述べ、武四郎もまた「一時の遊戯三昧に至ると雖も然も亦韻事(みやびやかな遊び)なりき」と、当事者の両人とも誇らしげである。 |
| こうしてできた百印百詩は主人鴎洲に贈られた。 |
| この雅会の成果は両鬼才(人間わざでないすぐれた才能)なればこその秀美であり、文学史に燦然と不滅の光を投ずる快挙である。 |
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| 頼三樹三郎は江差に越年逗留する。江差文人と交遊を深め詩作に専念、なかでも弘化4年(1847年)5月、文人仲間7人と、斎藤鴎洲の発議で姥神大神宮に献額した「江差八勝」は特記すべきものである。 |
| 江差八勝は江差市中及びその近隣の佳景八勝を、三樹と7人の文人仲間が選定し、七言絶句に賦し、一大額に書して姥神大神宮に海産豊漁を祈願して奉納せんとするもので、三樹三郎が京都に帰着後、識語を書き、八景の各詩を短冊に揮毫し、その配置・表具について克明に指示して、斎藤鴎洲に送り、鴎洲は忠実に一大額に設え、姥神大神宮に奉納掲額したものである。 |
| 三樹三郎の揮毫した真筆の江差八勝の額は、姥神大神宮の社務所に掲額されてある。 |
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