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| 1790年代に入って、関西や北陸の北前船経営者に対して江差商人の中にも、北前船経営に乗り出す者がでて、30数軒、船数も100艘を越え、その中から真に海商の名に値する豪商を輩出する。 |
| 北前船は登り商品として鰊荷物を主とする海産物を買積して、各港で販売し、下り商品として米をはじめ、衣料・漁具・生活用具の総べてにおよぶものを買積して帰港し、販売するものである。江差商人の北前船経営は一連の多角的経営の中での一分野であり、北前船経営のみを家業とするものではなかった。 |
| 北前船経営は利潤の大きなもので、登り下りとも利潤は100%以上と云われ、700石積船での往復で、2千〜4千両の純利があった。江差大手の浜帳によると、一年の利潤が20万両以上と記帳されている。弁財船の建造費は1石当り1両、千石船で約千両と概算されているが、その原価償却は1航海で可能であり、新造1年目にして早くも利益が計算されたと云う。しかし荒海の日本海にいどむ航海であるだけに海難事故も多く、投機的性格を秘めている企業でもあった。 |
| 北前船の運航は旧暦の3月に始動し、8月に終るを定法とし、その間登り下りの2往復をピストン運航の取引にあたり、秋〜冬は荒海をさけ・大阪の木津川・敦賀・出雲崎等で冬囲と称して冬眠に入る。その間は翌年の海あけにそなえて作事(修繕)にあてたのである。 |
| 北前船の実際運航には、船主か子息が船頭として直接経営にあたるものを直船頭と云うが、これは小規模経営者に多く、一般的には船頭の適任者を雇傭して託する雇船頭であった。北前船の船頭は、買積船の性格から航海術・船員の統率力は絶対要件であり、それに加えて各地の商品相場を適確にキャッチして、利潤をより高める才覚が要求される。船頭と商人のベテランであることである。この船頭の能力が、船主の家運を担っているということである。 |
| 北前船経営に使用された弁財船は、千石船と云われているが、実は300石〜800石船が一般的で、千石船というのはむしろ特別で、稀有なものであった。高田屋嘉兵衛の辰悦丸1500石というのは、特殊中の特殊である。中型船が一般的であったのは、運航経費や船員給料、さらに万一の海難を考慮した場合、大型より中型が有利と判断されたからである。 |
| 北前船の給料体制には独特の仕来があり、賃積船では船頭一ヵ年の給料は35両〜50両であったのに対して、北前船では年3両程度で、商才まで要求されているにしては如何にも低廉である。それにもかかわらず、北の荒海に男達を雄飛させたのは、帆待(ホマチ)という別途収入が約束されていたからである。 |
| 本来ホマチは不正行為である。それが北前船では船主から公認されていたのである。即ち船主荷物の約10%にあたる分を、船頭荷として買積することが許されるものである。関川船の例を見ると、店荷を2330両余積込み、帆待荷を10.8%にあたる244両余買積して出港し、帆待荷は439両で販売し、195両の利潤を得ているのである。それが年2往復4回の取引では780両となり、船頭にとってこの帆待収入は、将来船持ちに成長出来る魅力あるものである。さらに沖ノ口役所の出口銭が、店荷5.5%なのに対して、帆待荷は2.5%と特例扱としているのである。この特殊な北前船の給料体制は、船頭をして安全航海、商取引に全力を傾注させる糧であり、船主にとっても利潤を高めるものとなり、極めて優れた経営法と申すべきである。さらに船員には切出しと称する別途収入が約束されていた。 |