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| 沖が暗いのに白帆が見える。 | |
| あれや、どこの船。 |
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| 問屋の主人が遠眼鏡で見守っている。 |
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| 右の帆肩に朱い棒、ずんと下した帆印はそれ、三国の幸福丸よ。 |
| 酒の角樽を提げて出迎える。 | |
| 船頭さんは羽織を着て、知工さんは矢立を腰に差す。 |
| 小伝馬船に乗り、若い衆が船簟笥を担って上陸する。 |
| カモメ群れ飛ぶ弁天島の島陰に |
| 出船三千、入船三千。 |
| 帆柱の林に夕日が映える。 |
| 狂歌師の平秩東作の『東遊記』に |
| 「富たる者の蔵蔵あまた建て並べ |
| すべて豊かなること |
| 京、江戸といえども多く劣らず」とある。 |
| 山の手の新地に絃歌のさんざめき、 |
| 影の町にも灯がともる。 |
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| 『和漢船用集』に記す。 |
| 「北前船、俗呼んでドングリ船というはその形の似たるをいうなるべし |
| およそ千石以上の大船なり」。 |
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| 積み荷をうんと増やすため、船の前半分の三の間、アカ間を幅広く作った。 |
| ずんぐり太って、実石数より余計積める。 | |
| 帆柱の直径は三尺以上もあった。 |
| 帆柱の受け軸が筒。 |
| 受け筒の下を彫って船霊を封じ込む。 |
| 左側に紙雛一対と女の髪の毛 |
| 右側に銭十二文、五穀、サイコロ二個。 |
| 一本の帆柱と大きな横帆は逆風に弱い。 |
| 千石積んだる船でさえ |
| 港出るときまともでも |
| 風の吹き様で出て戻る |
| まして私は嫁じゃもの |
| 縁がなければ出て戻る (津軽民謡) |
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| 栄寿丸と歓寿丸との二隻の千石船さらに十二隻の北前船を |
| 持っていたのが江差の豪商・岸田三右衛門。 |
| 兵庫で名高い大商人・北風荘右衛門をはじめ京都・大阪・下関・敦賀 |
| の商人たちと手広く取り引きしていた。 | |
| 紀ノ国屋文左衛門、銭屋五兵衛と覇を競う。 |
| 岸田家の古文書の数々、売薬の看板と同じ名の |
| 漢法薬の仕切書、米仕切、砂糖仕切。 |
| 船頭、知工たちは算盤の名手で能筆だった。 |
| 沖ノ口番所の課税台帳が「間尺帳」 |
| 船名、船頭名、乗組人数、間尺寸法、帆反数、 |
| 帆形の絵を添え、帆印を書き分けている。 |
| 花押にも似る帆形の筆づかいは、 |
| しゃれたデザイン感覚さえみせる。 |
| 漁場の親方衆、商人たちは、ニシンの群来を |
| 待ちながら、鯡待句会を開いたりしていた。 |
| 「蛭子講 鮭の子のなます 盛り立て」 |
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| 忍路高島およびもないが | |
| せめて歌棄 磯谷まで |
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| 江差追分節の名歌詞のひとつ。 |
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| 神威岬がへだてている女人禁制の航路へ付いて行けない嘆きの歌とか。 |
| いま、追分の長老がうたうのを聴くと悲愁が胸にこみあげてくる。 |
| それは常に及び難い人生遠い理想への長い道のりを思わせる。 |
| 厳しい北辺の風土に生活を築いた人々は | |
| 豪儀な気性のうちに堅実さを秘めていた。 |
| 日常の皿小鉢にも赤絵錦手は少なく |
| 大方は青一色の染め付けが目につく。 |
| 重厚な漆器類、入念な細工の簟笥、長持など |
| 什器一切が華美に流れることなく |
| 地味に手堅く永く役立つ物が選ばれている。 |
| 江差商人は合理性を身上とした。 |
| 昔の旅人にも「風俗質素」と見えた街だった。 |
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| その昔、雨乞いには黒馬を止雨と日乞いには白馬を神に捧げた。 |
| いつしか、生馬に「絵馬」が代わった。 |
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| 眼病平癒の祈願には「め」と書いた。 |
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| 出港のときは航海安全を祈り無事帰港の喜びと御礼に船絵馬を奉献した。 |
| 姥神大神宮の掲額は六隻の持ち船が誇らしい。 |
| この絵馬の構図は、近江商人、西川伝右衛門が、 |
| 近江八幡市、円満寺に奉納した北前船図と | |
| よく似ている。 |
| 永遠へのあこがれと恐れとを生む海と空。 |
| 幸運に笑い、悲運に泣くとき |
| 人びとは神や仏にぬがづく。 |
| たんなる超自然の力の崇拝ではなく、それは |
| 父母の父母、その上の祖霊とともに暮らす、 |
| 血縁地縁のきづなを確めあうマツリとなる。 |
| 浜街道には森厳な古寺社、小さなほこらが |
| 数多く、神の国仏の里と呼んでもよい。 |
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