北 前 船

北 海 道
江 差 町

江差町ホーム歴史・文化・観光情報江差町の観光施設・名所横山家北前船

北 前 船
( き た ま え ぶ ね )
江差港の推移
北前船の運んだ江差文化
北前船(きたまえぶね)とは
港 船 商 暮 祈
江差商人の北前船経営
最後のニシン
松前藩政時代から明治に至るまでの江差は、北前船(弁財船)による大阪・堺との商取引が盛んに行われ、商業、産業の町として繁栄を極めていました。また、その頃の江差には文人墨客の来遊も多く、ここ江差から北海道の文化が開花したと言っても過言ではありません。
江差屏風絵を描いた緞帳
江差屏風絵を描いた緞帳
江差屏風絵を描いた緞帳
江差屏風絵を描いた緞帳
(江差追分会館緞帳)
宝暦3年(1753年)、松前の絵師龍圓斎小玉貞良の作による一双屏風で、半双には江差の春を、他の半双には福山城下の秋を描いている。当時の江差はニシンの商取引によって松前藩の財政を支えるほどの繁栄を築いた時代で、往時の江差の繁華の様子を知る最古の資料です。
江差は遠く江戸時代のころから明治初期まで、ヒノキアスナロの産地、ニシン漁業の基地、そして北海道を代表する商業港として繁栄していました。それらの物資の交易に活躍したのが北前船といわれた弁財船です。
北前船は瀬戸内海を起点に日本海を江差まで西回り航路で往復。江差から積みこんだヒノキアスナロやニシンは、各地で活発に取引きされました。
北前船交易の最盛期のころの江差には、多くの北前船船主や豪商が住み、街は活気にあふれていました。そしてこれらの北前船の往来によって、関西文化の流れをくむ江差文化が生まれ、育っていったのです。
懐古江差写真:郡役所付近の街なみ
北前船の係船(明治30年代)
懐古江差写真:郡役所付近の街なみ北前船の係船(明治30年代)
北前船の係船(明治30年代)弁財船・帆前船・合子船が見える
中歌町に残されている旧中村家住宅は、江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に、海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てたものです。家屋は、当時江差と北陸を往復していた北前船で運んできた笏谷石(しゃくだにいし)を積み上げた土台に、総ヒノキアスナロ(ヒバ)切妻造りの大きな二階建ての母屋、さらに母屋から浜側まで文庫倉、下の倉、ハネ出しまで続く通り庭株式で当時の問屋建築の代表的な造りとなっています。
北前船の係船(明治30年代)北前船で運んできた笏谷石(しゃくだにいし)

姥神大神宮に奉納された船絵馬
北前船による交易の時代、船主が新しく船を求めると船絵馬を造って信仰している神社に奉納するなどしていました。
姥神町の船主・田口伊兵衛が6艘の船の船頭と奉納しました。
船絵馬

ニシンを漢字で書くと「鰊」これを江差では「鯡」の文字で読んでいました。これは、当時の松前藩では米はとれないが豊漁のニシンによって生活が成り立っていたので、「ニシンによって生活が成り立っていたので、「ニシンは魚に非ず、米である」という発想があったためだといわれています。松前藩の経済を支えるうえで、ニシンはそれほど重要な収入源だったのです。
→ 民 話

文化年間(1804〜1818年)に、江差の茶店の二人の娘が、豆席や餅、そばを「提げ重」に入れ、江差港の沖に停泊する弁財船を回って販売。これが北海道における最初の「そば売り」だといわれています。


北 海 道
江 差 町
北 前 船
ホームページに掲載されている情報(文章、画像、イラスト等)については、「引用」など無断で複製・転用することはできません。
※本サイトで使用されている文字、画像等の無断使用を禁じます。