江差追分踊り
江差追分踊り

江差追分節の情緒をかもし出すものに江差追分踊りがあります。
追分踊りは文化・文政年代(1804〜1829)の盛期に座敷踊りとして芸妓の間で踊られ、その由来は狩猟と漁労が交歓する時、唄を歌い、山猟が熊祭りの振りでそれに和して踊ったの初まるとの伝承があるが、慶応4年(1868年)歌舞伎俳優の初代市川弁之助が江差で興行した折、彼の振付けで櫓を押す形や鴎の飛び交う様を入れて創作し、それが舞台踊りとして伝承されたものであります。
今日江差追分節は日本を代表する民謡として君臨し、その奥深い情緒と洗練された歌の調べは、芸術民謡とまで評価されるに至っていますが、それに至る過程には追分節一筋に生命をかけた数多先人の努力を忘れてはならないのであります。江差追分の真価は声の良否ではなく、歌詞の情感を如何に唄いあげるかにあり、その意味で一番多く唄われた歌詞は、江差に向けて北前船が、蝦夷地の山河を初めて視界に入れた感懐を唄った
江差追分踊り
「かもめの鳴く音にふと眼をさまし
あれが蝦夷地の山かいな」
江差から蝦夷地漁場に出航するとき、馴染をかさねた女性との別れの感懐を唄った
「忍路高島およびもないが

せめて歌棄磯谷まで」
江差の情緒を唄いあげた
「松前江差の鴎の島は

地から生えたか浮島か」
以上の三つを「追分の三器」と称して、江差追分の神髄を唄いあげるのに、最も適した歌詞であるといわれています。

−「江差町史」より−
ホームページに掲載されている情報(文章、画像、イラスト等)については、「引用」など無断で複製・転用することはできません。