本多覃墓誌銘

本多家(本多平八郎忠勝子孫)奥津城域内
前面「本多正雄・正周・正友・正覃」之墓の刻
右側面・裏面・左側面に『愚公本多君墓誌銘』刻
字愚公 佐郷 号豆山 江差八勝「津花夜市」を詠む。
三十五歳で病死、父友正の依頼で友人の井口 較撰、
三瓶更正書し墓誌銘建立。
第一世正雄七千石若狭守、故あって官を辞し長崎に医を学ぶ。
第二世正周(正雄長男医師)父死後母を伴い江差に住む。
第三世正友(正雄四男医師)伊豆下田・掛川などを経江差に再来。
第四世正覃(正友長男医師)父に従い江差に来る。
第五世正幸(医師。父藻寄政義・母本多静子=第三世正友長女)第四世に妻子なく第五世を継ぐ。
同じ域内に他に三基の墓碑がある。
「本多家奥津城」(第六世・第七世・第九世の墓誌あり)
「藻寄政義・本多静子之墓」
「本多正幸・関川武子之墓」
江差の豪商関川平四郎次女武子を娶る。関川平四郎塾頭の
「皇学舎」塾生として尊皇・藩政改革を掲げ成功する。 |
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設置(管理)者 | 本多正友 |
設置住所 | 本町 |
設置場所 | 松の岱神葬墓地内 |
設置年 | 弘化4年(1847) |
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